ボクシングの歴史

第1章

ボクシングの原型は、おそらく人類誕生にその起源を見いだすことができるであろう。米国のボクシング研究家FRANK MENKEは、アダムとイブの子供達の兄弟ゲンカに始まるとしている。
 1万年前のエチオピア付近で行われていた兵士の訓練が、ボクシングの形でエジプト、クレタ、ギリシアへ伝わり、盛んになったとする説(JOHN GROMBACH)は、非常に有力視されている。紀元前4000年頃のエジプトの象形文字から、当時のエジプトの軍隊が格闘技としてボクシングを採用していたことが判読されており、またクレタ島で発見された紀元前3000年頃のエーゲ文明の遺跡から、ボクシングの図が描かれた壷が発見されているのである。
いずれにせよ、ボクシングがある程度の形となって歴史上に現れたものとしては、ホメロスの「イリアッド」第23巻でのエピウスとエウリアレスの闘いの描写が挙げられる(紀元前1100年頃)。ここでは、この試合をプロモートした英雄アキレスによる試合描写が刻まれており、アキレスはKO勝ちしたエピウスにバラの花を、敗者エウリアレスに酒杯を贈ったということである。
 さて、「ボクシング」という言葉の語源は、古代ギリシアのPUXOS(箱)にあるとされている。そして、さらに元をたどれば、PUXOSはPUGME(握りしめた拳)に由来していると言われている。そしてさらに、拳で戦うという意味のラテン語PUGILATUSから、PUGILISM(ピュージリズム=競技ボクシング)という言葉が誕生した。
 ピュージリズムは、紀元前688年の第23回古代オリンピック大会から正式種目として採用された。初代金メダリストには、体中に油を塗りまくり試合に出場したオノマストスが輝いている。この当時は、手を護るためにスパイライと呼ばれる牛革製の柔らかく長い革ひもを、ヒジから拳にかけて巻き付けたスタイルで行われたという説、さらに鉄製の金具を取り付けた長い革ひも=カエストスで両拳を固めていたという説(デニス・タイドロッド)がある。
 もちろん当時はストレートなどという攻撃はなく、もっぱら利き腕一本でのフックのようなスイングが中心で、拳だけでなく、腕やヒジによる攻撃も認められていた。しかし、第38回大会以降は、噛みつきを除く、あらゆる攻撃が許され、ピュージリズム(ボクシング)というよりはケンカ・ファイトへと変貌していったのである。
 ギリシアを征服して世界制覇を果たしたローマの時代になると、ピュージリズムは残虐ショーとしての傾向を深めていく。金具や鋲を打ち付けたカエストスを前腕部に取り付けて戦ったのである。
 帝政ローマの退廃的傾向、残虐を好む風潮は、この競技の見世物化を極限にまで推し進め、その結果、死を招くことも少なくなかった。しかし、この残虐ショーもローマの衰退とキリスト教の普及により、姿を消していくことになる。404年、ローマ皇帝ホノラスはピュージリズムを禁止し、以後1200年の長きにわたり、この競技は表舞台から姿を消すこととなったのである。


第2章

13世紀初頭にイタリアの聖職者ベルナルディーネがピュージリズムと呼ばれていたこの競技をボクシングという名称で普及に務めたとする文献もあるが、16世紀、英国で息を吹き返したボクシング復興第1号の試合は、1681年の肉切り職人(ブッチャー)対従僕(フットマン)のピュージリズムである。
 以後、イギリス大衆の人気を集めることになるが、これに最も貢献した男が近代ボクシングの始祖ジェームス・フィッグ(James Figg 1695?~1734)である。彼は棍棒術、レスリングなどとピュージリズムを合体した総合格闘技の大家であり天下無敵を誇っていた。1719年には初代英国チャンピオンと名乗り、海外の挑戦者を相手に懸賞試合を行う一方、ロンドンにジムを設立し、選手を養成した。
 この当時は、まだボクシングという呼称は一般的ではなく、ベアナックル・ファイトやミルという名前で行われていた。試合は現在のようにラウンド制ではなく、相手がダウンしたり、投げ倒されたりした場合に30秒の休みが与えられ再開となる。これに応じられなければ敗北を宣言された。当時の選手たちは相手に髪の毛をつかまれないよう、髪の毛を剃り上げていたそうだ。
 当時、英国のボクシング熱は異常なほど高く、試合を見るために人々は前夜から試合地に詰めかけて、野宿をした者も多数いたという。
 また、時代は電灯などがまだ発明される前のこと、試合はすべて白昼に行われ、太陽光をまともに浴びないコーナーを、コイントスで選んでいたという。さらに時代を感じさせるのが、伝書鳩の存在。テレビはもちろんのこと、電話もラジオもなく、遠方の結果を知るのに活用されたのが伝書鳩だったのである。しかし、ハトが途中で鷹などに襲われて知らせが届かないこともあり、数日後に旅人によってようやく試合結果が伝わるなどということもあった。
 フィッグの高弟で、第3代チャンピオンのジャック・ブロートン(Jack Broughton)は、何でもありの危険なファイトを、人々により普及させるためには明確なルールが必要と考え、1743年ブロートン・コードを発表した。噛みつき、投げ飛ばしなどの禁止の他、一方がダウンした際は、倒れた選手は30秒以内にステージ中央の所定の位置に立つことができなければ負け、採点方法、賞金の取り決め(勝者が2/3、敗者が1/3)などをボクシング史上初めて成文化したのである。
 また、彼はボクシング指導を請う貴族たちのケガを防ぐためにマフラーという現在のグローブの元となる防具を発案しボクシングの近代化に大いに貢献した。が、しかし、実際の試合は相変わらず素手に近い形でノールール、ノータイムリミットで行われ、残虐性を拭いきることはできなかった。そのため、時に官憲による取り締まりを受け、1754年には非合法とされてしまう。その結果、ボクシングの試合は合法の国フランスやベルギーで行われることになった。


第3章

イギリス国内で非合法となってしまったボクシングであるが、貴族や富裕層によって強い指示を得ることになる。1790年、遂にボクシングは再開となり、1811年に行われた英国人チャンピオン、トム・クリブと強打の黒人トム・モリノー(米)の再戦には、2万5000人もの大観衆が押し寄せるまでに至った。
 1814年、元王者で左ジャブの名手だったジョン・ジャクソンが英国ピュージリスト保護協会を設立。1838年に29条からなる「ロンドン・プライズリング・ルールズ」を発表したのである。ベアナックルで試合を行うこと、蹴り、頭突き、目玉えぐりなどの禁止、ダウンした選手には30秒の休憩に加え、所定の位置に戻るまで8秒間の猶予が与えられるなどのルールが定められた。
 1867年、ロンドン・アマチュア・アスレチック・クラブの主宰者ジョン・グラハム・チェンバースが第8代クインズベリー侯爵ジョン・ショルト・ダグラスの後援の下、「クインズベリー・ルール」(全12条)を発表したのである。3分戦って1分休むというラウンド制の採用、グローブの着用、投げ技の禁止、ダウンした後10カウントでKOという画期的なものであり、現在のボクシングルールの基礎をなすものであった。そして、このルールは時に残虐ショーと化す恐れのあるボクシングを、技術を根幹としたスポーツたらしめんとすることに最大の意義を見出す革新的なものとなった。
 しかしながら、この新ルールも定着するまでには相当の時間を必要とした。特にグローブ着用は1891年、サンフランシスコでのピーター・ジャクソン対ジェームス・コーベット戦まで待つことになる。そして翌1892年、ニューオーリンズで行われたプライズファイトのスーパースター、ジョン・L・サリバン対銀行員上がりのアマチュア出身ボクサー、コーベット戦がクインズベリー・ルールによる最初の公認世界ヘビー級タイトルマッチ(5オンスのグローブを着用)となった。試合は、ベアナックルファイト・スタイルのサリバンを、コーベットが巧みなヒット・アンド・アウェイでアウトボックスするという、これまた画期的な展開の末KO。
 これ以降、コーベットの品行方正さとスマートなスタイルも相まって、ボクシングの近代化は急速に進み、大衆スポーツとしての地位を確立していくこととなる。
 1921年にジャージーシティで行われたジャック・デンプシー(米)対ジョルジュ・カルパンチェ(仏)の世界ヘビー級タイトルマッチは、世界で初めてラジオ中継された試合となり、また百万ドルゲートの試合であった。以降、デンプシーの人気は絶大となり、10万人以上の観客を集めるビッグファイトを演出していき、ボクシングの黄金時代を築き上げた。
 統合機関はアメリカ国内の13州が参加したNBA(全米ボクシング協会=1920年設立)、BBBC(英国ボクシング統轄委員会)、IBU(国際ボクシング連合、現在のEBU=欧州ボクシング連合)などが存在したが、1962年にNBAがWBA(世界ボクシング協会)に改称。WBAの諮問機関として1963年にメキシコで発足されたWBC(世界ボクシング評議会)だったが、徐々に統轄機関へと様相を変え、後に分裂したのである。
 一方、アマチュアでは1904年のセントルイス・オリンピックから正式種目となり、その後、1946年にAIBA(国際アマチュアボクシング協会)が発足された。


第4章

日本ボクシング界の始まりは、渡辺勇次郎が東京下目黒に日本最初の本格的なボクシングジム日本拳闘倶楽部を設立した1921(大正12)年12月25日とするのが定説である。これより先、1896(明治31)年にジェームス北條と齋藤虎之助が横浜市石川町にメリケン練習場を開いたが、入門者は1人もなく、まもなく閉鎖された。次いで1909(明治44)年、神戸の嘉納健治が御影の自邸に道場を作り、国際柔拳倶楽部を発足した。その後、大日本拳闘会となり、ボクサーを養成したが本格的なものではなかった。
 これに反して渡辺勇次郎は19歳で渡米し、サンフランシスコで修行。14年の長きにわたり、プロボクサーとして活躍し、日倶を設立した。彼を日本ボクシング界の始祖、父とすることに異論はなかろう。
 その後、徐々にボクシングという競技が国内にも根ざし始め、1927(昭和2)年には大日本拳闘会制定の日本選手権大会が開催され、翌年にはアムステルダム五輪に岡本不二(バンタム級)、臼田金太郎(ウェルター級)の2名が出場した。
 また、1931(昭和6)年には現在の日本プロボクシング協会の前身である全日本プロ拳闘協会が設立され、折しもピストン堀口という日本ボクシング史上希有の怪物の出現も手伝って、ボクシングは大衆の支持を急速に集めていくこととなる。
 その後、戦争により中断したボクシング活動も終戦により徐々に息を吹き返し、1947(昭和22)年には戦後初の全日本選手権大会が開催された。そしていよいよわが国のボクシング界も国際的に認知される条件がそろってくる。
 1952(昭和27)年に日本ボクシングコミッション(JBC)が発足し、以後のプロ試合は公正中立な機関により運営管理されることとなり、プロボクシングにおける"一国一コミッションの原則"という、国際潮流に則った理念が浸透していった。そしてこの年の5月19日、後楽園球場に4万人の大観衆を集めて行われた世界フライ級タイトルマッチで、白井義男(シライ)が王者ダド・マリノ(米)を判定で破り、日本初の世界チャンピオンとなったのである。
 その後日本は、1954(昭和29)年にNBAに加盟し、数々の世界チャンピオンを輩出していくこととなる。